一ノ瀬泰造 経歴
1947年(昭和22年)
11月1日 佐賀県武雄市にて、一ノ瀬清二・信子の長男として誕生。
1963年(昭和38年)
佐賀県立武雄高等学校入学。高1の夏には野球部員として甲子園大会出場。また物理部の部長として写真部門で活躍する。
1966年(昭和41年)
日本大学芸術学部に入学。 当時頂点に達していた大学闘争を取材。
卒論のテーマは「スポーツ」。特にボクシングでは自らも入門して、内側から その世界の厳しさを撮った。
1970年(昭和45年)
大学卒業後、UPI通信社東京支局に勤務。
1971年(昭和46年)
UPIを退社。その後、横田基地のPXで働き、ベトナム行きの 資金を作る。
1972年(昭和47年)
71年暮れに勃発した「インド・パキスタン戦争」にせき立てられ、1月20日、日本を発ち、バングラデシュにてフリーカメラマンとしての一歩を踏み出す。
3月14日、当時既に、共産軍側の根拠地となっていたアンコールワットへの 一番乗りを目指し、カンボジア、シアムリアップへ入国。
カンボジア政府軍とのトラブルが重なり国外退去を命ぜられ、8月15日、 ベトナムへ向かう。
8月25日「安全へのダイブ」でUPI月間賞。
「ベトナム戦争集結」アサヒグラフ2月20日号掲載。
「戦災孤児タン君は生きる」アサヒグラフ2月23日号掲載。
「捕虜交換『和平』が現実となるとき」週刊朝日3月16日号掲載。
「マンジョイ!列車は平和を乗せて」アサヒグラフ6月8日掲載。
1973年(昭和48年)
4月27日、身辺の整理のためと、 突然帰郷するが数日の滞在の後、ベトナムに戻る。
6月12日–7月10日、ボクシング教師の名目でカンボジアに再入国し、戦闘取材をする。
8月7日、韓国籍の弾薬輸送船に同船し、両岸から浴びせられる共産軍の砲弾の中をサイゴンから、プノンペンまでメコン河を渡る決死行を試みる。この時の記録「輸送船団同乗記」は毎日新聞8月15日付に掲載。
その後カンボジアの戦場取材に出る。プノンペン周辺の戦闘や、最も激戦地といわれたコンポンチャムの攻防戦では敗退の一路を辿る政府軍兵士のクローズアップを狙う。
11月7日、親友チェット・セン・クロイの結婚式に招待され、シアムリアップを再び訪れる。砲声の轟くなかを、厳粛のうちにも華やかにカンボジア伝統を守って行われる結婚式模様の数々を愛情をもって撮影する。 「砲声下の結婚式」はアサヒグラフ12月14日号に掲載。
11月22日または23日、「地雷を踏んだらサヨウナラ」と友人への別れの言葉を残し、単身アンコールワットへ潜入し、そのまま消息を絶った。 26歳の誕生日を迎えたばかりであった。
1982年(昭和57年)
シアムリアップから北東に14km、荒涼としたプラダック村の草原に9年の間、静かに眠っていた泰造に、両親はめぐり合うことができた。